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悲劇は突然やってくる

 今度の大震災で感じたことですが、悲しみとか苦しみなどの悲劇は突然やってくるもののようです。津波で全てが押し流される映像は、何か映画を見ているようで、これが現実なのかと信じられないものでした。
 その瞬間の前と後、昨日と今日では雲泥の差ーーー天国と地獄です。

 しかし反対に、喜びとか楽しみといっためでたい事は、突然、想定外でやってくることは、ほとんどないようです。
 たとえば結婚式は事前に予定されているものだし、長年の夢がかなった瞬間の喜びなども、その夢に向かって努力した結果なわけです。宝くじで1億円当たるという事はあっても、宝くじを買わなければ、その幸運にあずかることはできません。
 もっともあるイベント会場で、「おめでとうございます。あなたが入場者のちょうど10万人目です。」などと言われて、突然10万円をプレゼントされるという想定外の幸運はあるかもしれませんが、こんなのは例外中の例外で、まあ、このような経験をする人はめったにいるものではありません。
 普通に考えれば、「悲しみは突然やってくる。喜びは想定した結果としてやってくる」と言えるのではないでしょうか。

 それでは、突然やってくる悲劇の前の生活に、私たちは普段、何を感じているでしょうか。つまり、私たちの日常の生活です。住む所があり、食べたい物を食べ、着たい物を着て、今日何をするかという行動の自由のある生活ーーーこれだけでも本当は喜びのあふれた生活なのかも知れません。
 でも私たちは、それを喜びと実感することはあまりないのです。なぜなら、それが当たり前となっているからです。当たり前のものには感謝しない。「ない」ものばかり求めて、「ある」ものに感謝することはあまりないようです。
 被災地でライフラインが破壊され、しばらく不便な生活を強いられていた人が、ライフラインが復旧し、水道の蛇口をひねって水がでた時に、「こんなに嬉しいことはない」と感動した話が新聞に載っていました。
 だから、この日常の平凡な生活に喜びを見いだせたら、その人は幸せと言えるのかも知れません。フランスのノーベル文学賞作家のアンドレ・ジイドもこう言っています。「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいるのだ。」
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あすのことを思いわずらうな。

 色々な不幸な事をきっかけに、将来に対して不安になったり、恐怖感を覚えることがあります。そのようなストレスが、うつ病や神経症など、さまざまな心の病を発症するきっかけになることが多いようです。
 このような時、私はイエス・キリストの次の言葉を思い出します(マタイ伝、第6章)。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って下さる。」
 
 この言葉は、イエスの言葉の中でも特に私の好きな言葉です。私自身、何かに悩んだりした時、この言葉を思い出すようにしています。「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。1日の苦労は、その日1日だけで十分である。」
 この言葉の意味は、「世の中なるようにしかならないのだから、あすのことは何も考えなくていい。あすのために、何かをしようとしなくていい」などと言っているのではありません。将来に対し不安になったり、最悪のことを想定して恐怖感を抱いたりするのは自然のことです。未来への不安感や危険に対する恐怖感を全然もっていなかったとしたら、人類はとっくの昔に滅んでいたことでしょう。

 大切なのはバランスなのです。不安感や恐怖感が全然ないのは困るが、極端にありすぎると、それらは自分の心と体を傷つけてしまうのです。
 考えてもみて下さい。自分のことを幸福かどうか、それを感じ取るのは現在の自分しかないではないですか。過去のことを思い出したり、未来のことを考えたりしても、思い出したり考えたりしているのは、「いま」「ここ」にいる自分なのです。
 たとえば後悔ということを考えてみましょう。過去のあやまちを思い出し、悔んだり、怒ったりして暗い気持ちになったとしても、その不幸感を味わっているのは現在の自分です。反対に、過去の楽しかったことを思い出し、一人ウキウキした気分になったとしても、その幸福感を味わっているのは現在の自分なのです。
 未来についても同じことです。将来への不安や恐怖という、自分を暗い気持ちにさせているのも、現在の自分です。幸福か不幸かーーーそれを感じるのも「いま」「ここ」の自分だけなのです。
 だから、あすの不安を取り除くため、やるべき事をやったら、もうそれ以上思いわずらうのはやめましょう。あとは天が決めてくれることなのです。「あすのことは、あす自身が思いわずらう」のですから・・・。