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健康と幸福

 幸福になるためには、色々な条件が必要だと考える人がいます。
 ある程度のお金とか、やりがいのある仕事、温かい家庭、良好な友人関係などです。その中でも健康を第一に考える人は多いでしょう。しかし健康だけでなく、上記の色々な条件は幸福にとって必ず必要なのでしょうか。

 そもそも幸福とはいったい何でしょうか? それは「いま・ここ」の自分に満足している状態ではないでしょうか。別の言い方をすると、幸福とは気分の問題であり、良い気分(心地良い気分)の時に幸福を感じ、悪い気分(イライラした重苦しい気分)の時に不幸感を持つのではないでしょうか。
 このような視点から健康と幸福の関係を考えてみますと、病気を抱えていたり、障害を持っている人が必ず不幸だとは言えないことが分かります。そんな状況でも良い気分を味わうことは可能だからです。
 ただ、病気が感覚に影響する場合は、健康と幸福には関連性が生まれてきます。つまり、良い気分を損ねるからです。
 例えば痛みーーー常に頭痛や歯痛、胃痛、ヒザ痛などに見舞われている時はどうでしょう。その他、アトピー性皮膚炎によるかゆみ、耳鳴りの不快感、飛蚊症や白内障、緑内障などの視覚への影響、鼻づまりによる呼吸困難、味覚障害等、私たちの五感に直接影響するような病気(不健康)は幸福感と密接な関連があると思われます。
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反省はするが後悔はしない

 反省と後悔ーーーちょっと似た感じの言葉ですが、その内容は全く違います。つまり視点の方向が真逆なのです。一方は過去に、そしてもう一方は未来に向いているのです。
 後悔とは、消し去りたい過去のイヤな出来事、苦しい思い出や悲しみ、怒り、過ちなどを思い出し、「どうしてあんな事をしてしまったんだろう」と、ただ過去の苦い体験を思い出すだけのことなのです。そして過去の苦しみや悲しみを思い出すことで、現在の心もそのようなマイナス感情で満たしてしまうのです。
 後悔している時間は何ら生産性がありません。なぜなら、過ぎ去った時間を巻き戻すことはできないからです。

 一方反省とは、過去の失敗や苦い体験に対し、将来二度と同じことが起きないよう対策を講じることなのです。ただ誤ることではありません。つまり視点は未来に向けているわけです。
 幸福かどうかを決めるのは、「いま、ここ」の現在の私たちの心の状態です。後悔は現在の心を怒りや悲しみで満たし、不幸にしてしまうのです。だから私は反省はしても後悔はしません。これが人生をポジティブに生きるための工夫だと思っているからです。

病気になりたがる人たち

 誰でも健康でいたい。病気になるのはイヤと思いがちですが、どうも時と場合によっては、それに当てはまらない人たちがいるようです。つまり、病気になりたがる人たちです。

 この間、丸山穂高衆院議員が北方4島のビザなし交流会における「戦争発言」で、衆院議院運営委員会の事情聴取の予定を病気を理由に欠席しました。適応障害という診断書も提出し、2か月の休養が必要だというのです。
 う~ん、こういうケースってよく聞きますよね。政治家とか大企業のトップとか、社会的に影響力のある人物が不祥事を起こした時、マスコミや行政の追及を逃れるため、よく使われる手だと解釈されます。

 さて、この解釈ーーーつまり病気になったふりをしている、というのは80%当たっていると思いますが、あとの20%は本当に病気になってしまったのではないかと私は考えています。なぜなら、心と体はつながっているからです。
 「病は気から」と言われますが、これは科学的に証明されています。病気になりたい、病気になって入院したいと心から思っていたら、本当に病気になってしまうのではないかーーー丸山議員の場合はどうか分かりませんが、そんなケースもあるのではないでしょうか。

今こそ哲学が必要な時代

 何年か前、文科省による「文学部廃止」などの議論があったように記憶しています。現代のように科学技術の進歩が著しい時代に、何の役にもたたない学部という考えなのでしょう。
 文学はその神髄である哲学を物語風に表現したものです。だから文学批判は哲学批判でもあるわけです。

 哲学とはどのような学問でしょうか? それは人生の意味や幸福、どのように生きるべきなのかという人生の根本問題を考える学問だと私は思っています。
 そして現代のように科学技術が急速に進歩し、私たちの暮らしがめまぐるしく変化する時代においては、その根本である生き方を問う哲学は、ますますその価値が増していくのではないでしょうか。
 なぜなら、この根本であるいかに生きるべきかという意識がなく、技術革新により世の中が急激に変化した時、その技術が本当に私たちの幸福に寄与するのか分からないからです。

 現代は過去の世界の歴史の中でも例を見ない新しい時代です。一言で言えば、あらゆる面での急激な変化の時代です。
たとえばIT革命があります。スマホ一つで全世界とつながり、色々な情報の発信や受信、共有などが簡単にできるようになりました。
 またさまざまな分野でロボット化が進み、人の手でやってきた事の多くがロボットで代行できるようになっています。今後この傾向はますます強まるでしょう。私たち人間の仕事はどうなるのでしょうか?
 その他、バイオテクノロジーの進歩も見逃せません。人間のゲノム解析により医療の分野での活躍が期待できますが、同時にデザイナーズベイビーを生み出すことも可能になっています。
 頭脳明晰で運動能力バツグン、容姿も美しいという、いいとこどりの子供を作ることも、遺伝子組み換え技術などで可能になるわけです。

 う~ん、技術の進歩はどこまでも続きますが、倫理的に見て、どこまでならOKという限界点があるのではないでしょうか。そこを考えるのが哲学なのです。

性善説か性悪説か・・・私の見解

 昔から人間の本性は善か悪か、という論争が繰り広げられてきました。いわゆる性善説と性悪説の論争です。
興味あるテーマですが、私の見解では、まあ本性として両方持っているのではないかと思っています。
 性悪説の論拠はあきらかです。それは今までの歴史を見れば明白ですね。
 どうしてこうも人間は戦争を繰り返してきたのでしょうか? 多くの悲劇を生み出すことが分かっているのに争いをやめることをしません。それは現代でも、戦争、テロ、犯罪という形で続いています。このような面をみると、どうも性悪説に分があるように感じてしまいます。
 でも逆に私はそこに性善説の論拠を見るのです。
 戦争やテロを私たちは闇雲に起こしているわけではありません。必ずそこには正義という動機が潜んでいるのです。
 「祖国を守るために・・・」とか「人民を圧政から解放するために・・・」とか、とにかく戦争を始める前には錦の御旗を掲げるのです。
逆に言うと、人々を戦争に駆り立てるためには、正義や善が必要だということです。悪事(結果として)にも善を前提にしなければならないーーーう~ん、人間って本当に複雑ですね。